昨日は昼から、河芸町にあります松林寺様にて毎月行われている法座、、ご法縁の集いに参加しました。
今回も各地から、20名以上の方が集まっておられます。
午前中はお同行の黒田さんもみえていたようでした。
潮音寺にも来ていただいております、講師である田中秀法先生の、午後のお話の内容をまとめてみました。
※人間と仏の世界の違いは何か。
人間の世界の話は、人より優位に立つための話。
磨けば磨くほど悪知恵になってゆく。
宝の山の奪い合いである。
仏の世界の話は、わからん話である。
わかったというのは人間の世界の話。
この世は見る角度によってコロコロ変わる世界。
その世界とは違う世界がある。
人間の世界の話は、人より優位に立つための話。
磨けば磨くほど悪知恵になってゆく。
宝の山の奪い合いである。
仏の世界の話は、わからん話である。
わかったというのは人間の世界の話。
この世は見る角度によってコロコロ変わる世界。
その世界とは違う世界がある。
※読経する前に伽陀を上げる意味
ここは濁った人間の世界ではなく、仏様の世界であるという事を言っている。
場の空気を替える。そうでないと仏法が世間話になる。
ここは濁った人間の世界ではなく、仏様の世界であるという事を言っている。
場の空気を替える。そうでないと仏法が世間話になる。
※アホな人ほどたくましく生きている。
賢い人、世渡り上手は案外もろい。
賢い人、世渡り上手は案外もろい。
※人間の経験の知恵は、あてはまるときは良いが、当てはまらない時には役に立たない。
限界がある。仏様の知恵には限界がない。
限界がある。仏様の知恵には限界がない。
※念仏一つでみなたすかる。
※老人が徘徊している姿は自分の「浄土」を探している姿である。
※幸せは時と場合、都合によってコロコロ変わる。
自分の父は海軍将校であった。当時は海軍将校と結婚する事はうらやましがられた。戦死しても、遺族は生涯恩給を受け取れた。ところが戦死した上に戦争で負けて恩給がもらえなくなり、母はその事を気に病んで亡くなってしまった。今思うと、その苦しむ母の姿は、私に対する仏様のお育ての姿であった。この世は何が幸か不幸かわからない。
自分の父は海軍将校であった。当時は海軍将校と結婚する事はうらやましがられた。戦死しても、遺族は生涯恩給を受け取れた。ところが戦死した上に戦争で負けて恩給がもらえなくなり、母はその事を気に病んで亡くなってしまった。今思うと、その苦しむ母の姿は、私に対する仏様のお育ての姿であった。この世は何が幸か不幸かわからない。
※親鸞聖人は「幸せ」のかわりに「功徳」「利益」という言葉を使っている。
※罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
親鸞『高僧和讃』
仏の知恵を頂いている者には、これが成り立つ。
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
親鸞『高僧和讃』
仏の知恵を頂いている者には、これが成り立つ。
※松陰の黒きは月の光かな 法然聖人
※人間の価値観で見るから苦しい。
※仏法の救いは、どうなろうとそこに救いがあること。
人間の救いには条件がある。
人間の救いには条件がある。
※ここにだけは落ちたくないと思っていたところで、仏様は待っていて下さった。
※底下の凡愚とは、下品下生の下という意味である。
人間は下品下生のところで悩んでいる。
落ちるところがあるから悩んでいる。
人間は下品下生のところで悩んでいる。
落ちるところがあるから悩んでいる。
※人間世界には救いがない。
※「よその子ならええけども」親は自分の子供を自分のものと錯覚している。
放っておくのがいちばんの教育である。
自分もあてにしない、子供もあてにしない。それが独立である。
放っておくのがいちばんの教育である。
自分もあてにしない、子供もあてにしない。それが独立である。
※「流転」とは、仏法の味わいがないこと。
来月は20日(木)10:00~16:00、津市河芸町の松林寺さんで行われます。悩み多き方々、ぜひぜひお参りください。
なお松林寺住職の森愚英先生は、今月25日13:00~の潮音寺永代経にてご法話を頂きます。
どなたでもお越しいただけますので、どうぞお気軽にお越しくださいね。
なお松林寺住職の森愚英先生は、今月25日13:00~の潮音寺永代経にてご法話を頂きます。
どなたでもお越しいただけますので、どうぞお気軽にお越しくださいね。